「昭和乙女の像」制作のプロセス

平成28年10月7日(金)午前、松野誠寛は一人の婦人の訪問を受けた。その人の名は、高松市春日町に住まいする市原雅子さん。先月4日の四国新聞朝刊に掲載された『「乙女の像」希望の象徴に』記事を読んで、嬉しくなってホームページから検索し、NPO法人理事長松野誠寛を訪ねてきたとか。

2016-10-17-15-37-26持参された資料を拝見して、私はとても驚いた。ここでは仮に現存する乙女の像を「昭和乙女の像」と呼ぶことにするが、そのいの一番の建設発起人が何と彼女の母親「久保愛子さん」だという事実。私は、いわざらこざら顕彰会会長田村政氏や副会長諸兄の発案だとばかり思っていました。

お借りした資料によると、「久保愛子さん」は明治41年3月27日善通寺赤門前で生まれ(存命であれば108歳)、21歳(昭和4年)の時久保家へ嫁いだ。昭和13年満州国へ渡り、終戦後昭和21年10月5日引き揚げ者として高松へ帰り、昭和38年9月29日より高松市多肥上町に居住されていました。

その前の昭和35年7月25日に、宗教団体「霊友会」に入会されています。私は宗教のことはよく分かりませんが、「インナートリップの霊友会」とか宣伝を聞いたことがあります。インナートリップは魂の旅とか訳しますから、霊などに強く惹かれる人だったのかも知れません。

その資料によると、昭和41年4月7日夫の母没後、かねてより滕神社(ちきりじんじゃ)ご祭神様に佛生山の土地を潔めさせて頂ける様、念願を続けて居りました。ある日夢の中に、錦の着物・錦の打ち掛け・たれ髪の方、後に同じ様な服装のお供の方、多勢が従って(夢の中に)お出ましになり次の様に言いました。

「我は滕神社祭神ぢゃ、生き埋めにされてより幾百年、氏子一同の一心込めてのお祭りを得、嬉しくありがたいと思っているが、足元より一寸二寸と埋められた時の苦しい思いが今に消えず苦しんで居たのだが、ふもとより聞こえるお前さんの尊いお経の功徳により成仏の時を頂きお礼に来た」と言われました。

2016-10-17-15-31-41四五日後(夢の中で)、平池の堤が今にコンクリートで護岸工事が出来る。こうなると今出ているいわざらこざらの水が止まるだろうから五六十年もすれば、土地の者にもわからなくなってしまうので二拾萬(円)の石碑を建ててもらいたい。難行苦行ではあるが、修業を決定してもらいたい。

そのかわり十円でもお手伝いした人には、子々孫々に至るまで衰微の因縁から守るとのお言葉を頂き、全く知らない事なので色々調べさせて頂き、ほんとうにあったことらしいので寄付を頂き(募金活動?)にかかりました。

(仏生山町)旭町の藤本利彦先生に碑文を作って頂き、それを持って下は十円より上二百円、神社のふもと「池則」「舟岡」「岡ノ上」法の友達と頂いて廻りました。神様より佛生山の町は歩かぬ様にとの事でしたので、寄付集めを神社総代の方にお願いに上りましたが駄目、佛生山町自治会の方でと思ってお願いに上がりましたがそれも駄目でしたが、これが修業と思いくる日もくる日も歩かせて頂きました。

参万五千円寄付が集まりました時、昭和42年7月1日(仏生山町)北新町渡辺清儀様のお助けを頂き渡辺清儀様、宮本又一様、佐藤正雄様、藤本利彦様、青木格三郎様、新宮正美様、渡辺秋義様、私と牟礼の和泉屋石材店にて石を決め参万円手付けのお金を払って約1年(そのまま石材店に置かせてもらいました)。

2016-10-17-15-32-14其の間、渡辺清儀様のお骨折りを頂き、田村会長以下各部落役員107名のいわざらこざら顕彰会を結成。昭和47年12月6日無事成大に序幕の式を挙げさせて頂きました。至らぬ私でございますのに感謝状記念品等頂きましたこと、御霊界の御一同様に厚くお礼申し上げます。

ここまでが、「いわざらこざらに碑の建つまで」に本人(久保愛子さん)が書いた文章です。同じアルバムの別の項には、「平池改修時の現地」と題して昭和43年青葉工業により平池改修工事が始まり、(像設置場所の)土地は青葉工業がしてくれる。藤本正直(元平池土地改良区理事長・香川町長)様が居なければ、碑は建たぬと言われましたという記述もあります。

「久保愛子さん」の文章は、続きます。その間永きにわたり、土手にセメント注入工事がありましたが、いわざらこざらの水は止めることが出来なかったという伝説は本当でした。セメント注入後も水はやはり出て居りましたのを、通りがかりに思わず見てしまいました。

だれか他の人に見せておけとの事でしたので、(仏生山町の)佃祝子様に見て頂きました。それでも、工事完成にて水は完全に止まりました。像の基礎工事の時、県の許可を取っていなかった事を藤本正直様に教えられお世話頂き、基礎工事を須田土建の御寄付により完成致しました。本当に不思議な事ですと締めくくっています。

私(松野誠寛)は、この事実を子々孫々まで伝えるためにホームページに掲載して、たった一人で立ち上げた高邁な考えに、大勢の方が賛同され「昭和乙女の像」が完成し、今日ここに「平成乙女の像」を造ることになった経緯を記録として残したいと願っております。

以下時系列順にたどってみます。

  • 昭和41年4月7日
    滕神社祭神夢に出る。寄付のため出向くと気が触れたと思われる
  • 昭和42年7月1日
    牟礼の和泉屋石材店にて石を決め3万円手付金支払い
  • 昭和42年9月17日
    いわざらこざら建碑顕彰会発足
  • 昭和42年12月22日
    趣旨書の原案審議 経過報告
  • 昭和43年1月15日
    経過報告 募金事務依頼について
  • 昭和43年7月21日
    いわざらこざら現地の清掃 16人
  • 昭和43年10月1日
    牟礼町南久通和泉屋石材店へ石のお迎え後、赤飯で祝う
  • 昭和43年11月12日
    石磨きにかかる。石工・北新町渡辺秋義様
  • 昭和43年11月15日
    本日から(大勢の)手を以て石を磨きにかかる
  • 昭和44年5月31日
    五月末を以て石磨きの奉仕を終わりました
  • 昭和44年6月1日
    滕神社において奉仕者8人集まり慰労会
  • 昭和44年6月13日
    高松一高萬木先生にご依頼してありました人柱の像の下絵が出来ましたのでこのことについての話し合いと製作依頼費のご相談について
  • 昭和44年6月14日
    佐藤正雄様と私(「久保愛子さん」)工費25万円也持参し高松一高萬木先生にお渡ししました
  • 昭和44年7月12日
    萬木先生に依頼してあった尊像の原型ができたので拝観の上、ご意見を伺いたい
  • 昭和46年
    篠原愛子様発案により法念(然)寺より三角石運搬
  • 昭和46年11月21日
    須田土建の御寄付により基礎工事完成
  • 昭和47年1月
    石工・新宮正美様「いわざらこざら乙女の像」と彫  
  • 昭和47年6月11日
    めでたくお姿建立、涙とどめなく流れる
  • 昭和47年11月24日
    碑文(寄付者芳名を含む)を彫むべく和泉屋へ石を再送。4年間久保邸庭で研磨したもの
  • 昭和47年12月5日
    石を「いわざらこざら乙女の像」横へ設置
  • 昭和47年12月6日
    除幕式・感謝状拝受。6年半の苦行が終わる。

このようなことが綴られた「文章」と、当時の「写真アルバム2冊」と、「「い
わざらこざら建碑寄付芳名帳43冊」を市原雅子さんが持参された。
併せて本人(市原明名義)と姉妹(中島徳子さん)、久保愛子さんの孫(村本佳暢子さ
ん)から多額の寄付を頂いたことを併記しておきたい。

折れそうになっていた私に、先輩の「久保愛子さん」は大いなる勇気と希望を
下さった。

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作詞:小比賀剛一
作詞:岡本正
唄:岡本由美子
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